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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

り。釈迦仏の仏にならせ給いしことを経々にあまたとかれて候に、第六天の魔王のいたしける大難、いかにも忍ぶべしともみえ候わず候。提婆達多・阿闍世王の悪事は、ひとえに第六天の魔王のたばかりとこそみて候え。まして、「如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」と申して、大覚世尊の御時の御難だにも、凡夫の身、日蓮等がようなる者は、片時一日も忍びがたかるべし。まして五十余年が間の種々の大難をや。まして末代にはこれには百千万億倍すぐべく候なる大難をば、いかでか忍び候べきと心に存して候いしほどに、「聖人は未萌を知る」と申して、三世の中に未来のことを知るをまことの聖人とは申すなり。
 しかるに、日蓮は聖人にあらざれども、日本国の今の代にあたりて、この国亡々たるべきことをかねて知って候いしに、これこそ仏のとかせ給いて候「いわんや滅度して後をや」の経文にあたりて候え。これを申しいだすならば、仏の指させ給いて候未来の法華経の行者なり。知ってしかも申さずば、世々生々の間、おうし・ことどもりと生まれん上、教主釈尊の大怨敵、その国の国主の大讐敵、他人にあらず、後生はまた無間大城の人これなりとかんがえみて、「あるいは衣食にせめられ、あるいは父母・兄弟・師匠・同行にもいさめられ、あるいは国主・万民にもおどされしに、すこしもひるむ心あるならば、一度に申し出ださじ」と、としごろひごろ心をいましめ候いしが、「そもそも、過去遠々劫より、定めて法華経にも値い奉り、菩提心もおこしけん。なれども、たとい一難二難には忍びけれども、大難次第につづき来りければ、退しけるにや。今度いかなる大難にも退せぬ心ならば、申し出だすべし」とて、申し出だして候いしかば、経文にたがわず、この度々の大難にはあいて候いしぞかし。