そもそも、「仏法をがくする者は大地微塵よりおおけれども、まことに仏になる人は爪上の土よりもすくなし」と、大覚世尊、涅槃経にたしかにとかせ給いて候いしを、日蓮みまいらせ候いて、いかなれば、かくはかたかるらんとかんがえ候いしほどに、げにもさるらんとおもうこと候。
仏法をばがくすれども、あるいは我が心のおろかなるにより、あるいはたとい智慧はかしこきようなれども、師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなおしくならいうることかたし。たとい明師ならびに実経に値い奉って正法をえたる人なれども、生死をいで仏にならんとする時には、かならず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔と申して七つの大事出現す。たといからくして六つはすぐれども、第七にやぶられぬれば、仏になることかたし。
その六つはしばらくおく。第七の大難は天子魔と申すものなり。たとい末代の凡夫、一代聖教の御心をさとり、摩訶止観と申す大事の御文の心を心えて、仏になるべきになり候いぬれば、第六天の魔王、このことを見て驚いて云わく「あらあさましや。この者、この国に跡を止むるならば、かれが我が身の生死をいずるかはさておきぬ、また人を導くべし。またこの国土をおさえとりて、穢土を浄土となす。いかんがせん」とて、欲・色・無色の三界の一切の眷属をもよおし、仰せ下して云わく「各々ののうのうに随って、かの行者をなやましてみよ。それにかなわずば、かれが弟子だんなならびに国土の人の心の内に入りかわりて、あるいはいさめ、あるいはおどしてみよ。それに叶わずば、我みずからうちくだりて、国主の身心に入りかわりておどしてみんに、いかでかとどめざるべき」とせんぎし候なり。
日蓮、さきよりかかるべしとみほどき候いて、末代の凡夫の今生に仏になることは大事にて候いけ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(385)三沢抄 | 建治4年(’78)2月23日 | 57歳 | 三沢殿 |