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て地獄に堕つること、譬えば、寒熱の姿形もなく眼には見えざれども、冬は寒来って草木・人畜をせめ、夏は熱来って人畜を熱悩せしむるがごとくなるべし。
しかるに、在家の御身は、ただ余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて、僧をも供養し給うが肝心にて候なり。それも、経文のごとくならば、随力演説も有るべきか。
世の中ものうからん時も「今生の苦さえかなしし、いわんや来世の苦をや」と思しめしても南無妙法蓮華経と唱え、悦ばしからん時も「今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれ」と思しめし合わせて、また南無妙法蓮華経と唱え、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登って四方をきっと見るならば、あら面白や、法界寂光土にして、瑠璃をもって地とし、金の縄をもって八つの道を界えり。天より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸の仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽・快楽し給うぞや。我らもその数に列なりて遊戯し楽しむべきこと、はや近づけり。信心弱くしては、かかるめでたき所に行くべからず、行くべからず。不審のことをば、なおなお承るべく候。あなかしこ、あなかしこ。
建治二年丙子十二月九日 日蓮 花押
松野殿御返事
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(374)松野殿御返事(十四誹謗の事) | 建治2年(’76)12月9日 | 55歳 | 松野六郎左衛門 |