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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 いまだ地に至らざるに、鬼神、にわかに帝釈の形と成って、雪山童子のその身を受け取って、平らかなる所にすえ奉って、恭敬・礼拝して云わく「我しばらく如来の聖教を惜しんで、試みに菩薩の心を悩まし奉るなり。願わくは、この罪を許して、後世には必ず救い給え」と云う。一切の天人また来って「善きかな、善きかな。実にこれ菩薩なり」と讃め給う。半偈のために身を投げて、十二劫、生死の罪を滅し給えり。このこと涅槃経に見えたり。
 しかれば、雪山童子の古を思えば、半偈のためになお命を捨て給う。いかにいわんや、この経の一品一巻を聴聞せん恩徳をや。何をもってかこれを報ぜん。もっとも後世を願わんには、彼の雪山童子のごとくこそあらまほしくは候え。誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば、我が身命を捨てて仏法を得べき便りあらば、身命を捨てて仏法を学すべし。
 とてもこの身はいたずらに山野の土と成るべし。惜しみても何かせん。惜しむとも惜しみとぐべからず。人久しといえども百年には過ぎず。その間のことはただ一睡の夢ぞかし。受けがたき人身を得て、たまたま出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして、いたずらに遊戯・雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を着たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養うといえども、法師となる義は一つもなし。法師という名字をぬすめる盗人なり。恥ずべし、恐るべし。
 迹門には「我は身命を愛せず、ただ無上道を惜しむのみ」ととき、本門には「自ら身命を惜しまず」ととき、涅槃経には「身は軽く法は重し。身を死して法を弘む」と見えたり。本迹両門、涅槃経、共に身命を捨てて法を弘むべしと見えたり。これらの禁めを背く重罪は、目には見えざれども、積もり