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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

て、後に須臾の間もこの経の法門を聴聞することあらば、我大いなる利益・功徳を得べしと悦ぶべし」と見えたり。無智の者は、この経を説く者に使われて功徳をうべし。いかなる鬼畜なりとも法華経の一偈一句をも説かん者をば「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うがごとくすべし」の道理なれば、仏のごとく互いに敬うべし。例せば、宝塔品の時の釈迦・多宝のごとくなるべし。
 この三位房は下劣の者なれども、少分も法華経の法門を申す者なれば、仏のごとく敬って法門を御尋ねあるべし。「法に依って人に依らざれ」、これを思うべし。
 されば、昔独りの人有って雪山と申す山に住み給いき。その名を雪山童子という。蕨をおり、菓を拾って命をつぎ、鹿の皮を着物とこしらえ肌をかくし、閑かに道を行じ給いき。
 この雪山童子おもわれけるは、「つらつら世間を観ずるに、生死無常の理なれば、生ずる者は必ず死す。されば、憂き世の中のあだはかなきこと、譬えば電光のごとく、朝露の日に向かって消ゆるに似たり。風の前の灯の消えやすく、芭蕉の葉の破れやすきに異ならず。人皆この無常を遁れず。終に一度は黄泉の旅に趣くべし。しかれば、冥途の旅を思うに、闇々としてくらければ、日月・星宿の光もなく、せめて灯燭とて、ともす火だにもなし。かかる闇き道にまたともなう人もなし。娑婆にある時は親類・兄弟・妻子・眷属集まって、父は慈しみの志高く、母は悲しみの情け深く、夫妻は海老同穴の契りとて、大海にあるえびは同じく畜生ながら夫妻ちぎり細やかに一生一処にともないて離れ去ることなきがごとく、鴛鴦の衾の下に枕を並べて遊び戯るる中なれども、彼の冥途の旅には伴うことなし。冥々として独り行く。誰か来って是非を訪わんや。あるいは老少不定の境なれば、老いたる