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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 今の代には、正嘉の大地震、文永の大せいせいの時、智慧かしこき国主あらましかば、日蓮をば用いつべかりしなり。それこそなからめ、文永九年のどしうち、十一年の蒙古のせめの時は、周の文王の太公望をむかえしがごとく、殷の高丁王の傅説を七里より請ぜしがごとくすべかりしぞかし。日月は生盲の財にあらず。賢人をば愚王のにくむとは、これなり。しげきゆえにしるさず。法華経の御心と申すは、これていのことにて候。外のこととおぼすべからず。
 大悪は大善の来るべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば、「閻浮提内、広令流布(閻浮提の内に、広く流布せしむ)」は、よも疑い候わじ。
 この大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候。むかしこの法門を聞いて候人々には、関東の内ならば、我とゆきてそのはかに自我偈よみ候わんと存じて候。しかれども、当時のありさまは、日蓮かしこへゆくならば、その日に一国にきこえ、またかまくらまでもさわぎ候わんか。心ざしある人なりとも、ゆきたらんところの人、人めをおそれぬべし。いままでとぶらい候わねば、聖霊いかにこいしくおわすらんとおもえば、あるようもありなん。そのほど、まず弟子をつかわして、御はかに自我偈をよませまいらせしなり。その由、御心え候え。恐々謹言。