現在して候だにも、この経の御かたき、かくのごとし。いかにいおうや、末代に法華経を一字一点もとき信ぜん人をやと、説かれて候なり。これをもっておもい候えば、仏、法華経をとかせ給いて今にいたるまでは二千二百二十余年になり候えども、いまだ法華経を仏のごとくよみたる人は候わぬか。大難をもちてこそ、法華経しりたる人とは申すべきに、天台大師・伝教大師こそ法華経の行者とはみえて候いしかども、在世のごとくの大難なし。ただ、南三北七・南都七大寺の小難なり。いまだ国主かたきとならず、万民つるぎをにぎらず、一国悪口をはかず。滅後に法華経を信ぜん人は在世の大難よりもすぐべく候なるに、同じ程の難だにも来らず。いかにいわんや、すぐれたる大難・多難をや。
虎うそぶけば大風ふく、竜ぎんずれば雲おこる。野兎のうそぶき、驢馬のいばうるに、風ふかず、雲おこることなし。愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は、国もさわがず、事もおこらず。聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時、一国もさわぎ、在世にすぎたる大難おこるべしとみえて候。
今、日蓮は、賢人にもあらず、まして聖人はおもいもよらず、天下第一の僻人にて候か。ただし、経文ばかりにはあいて候ようなれば大難来り候えば、父母のいきかえらせ給いて候よりも、にくきもののことにあうよりもうれしく候なり。愚者にて、しかも仏に聖人とおもわれまいらせて候わんことこそ、うれしきことにては候え。智者たる上、二百五十戒かたくたもちて、万民には諸天の帝釈をうやまうよりもうやまわれて、釈迦仏・法華経に「不思議なり、提婆がごとし」とおもわれまいらせなば、人目はよきようなりとも、後生はおそろし、おそろし。
さるにては、殿は法華経の行者ににさせ給えり。うけたまわれば、もってのほかに、人のしたしき
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(311)上野殿御返事(梵帝御計らいの事) | 建治3年(’77)5月15日 | 56歳 | 南条時光 |