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国なり。磁石のかねをすわず、方諸の水をまねかざるがごとし。故に、安然、釈して云わく「もし実乗にあらずんば、恐らくは自他を欺かん」等云々。この釈の心は、日本国の人に法華経にてなき法をさずくるもの、我が身をもあざむき、人をもあざむく者と見えたり。されば、法は必ず国をかんがみて弘むべし。彼の国によかりし法なれば必ずこの国にもよかるべしとは思うべからず〈これ四〉。
また、仏法流布の国においても前後を勘うべし。仏法を弘むる習い、必ずさきに弘まりける法の様を知るべきなり。例せば、病人に薬をあたうるには、さきに服したる薬の様を知るべし。薬と薬とがゆき合ってあらそいをなし、人をそんずることあり。仏法と仏法とがゆき合ってあらそいをなして、人を損ずることのあるなり。さきに外道の法弘まれる国ならば、仏法をもってこれをやぶるべし。仏の印度にいでて外道をやぶり、まとうが・じくほうらんの震旦に来って道士をせめ、上宮太子和国に生まれて守屋をきりしがごとし。
仏教においても、小乗の弘まれる国をば、大乗経をもってやぶるべし。無著菩薩の世親の小乗をやぶりしがごとし。権大乗の弘まれる国をば、実大乗をもってこれをやぶるべし。天台智者大師の南三北七をやぶりしがごとし。しかるに、日本国は、天台・真言の二宗のひろまりて今に四百余歳、比丘・比丘尼・うばそく・うばいの四衆、皆、法華経の機と定まりぬ。善人・悪人、有智・無智、皆、五十展転の功徳をそなう。たとえば、崑崙山に石なく、蓬萊山に毒なきがごとし。
しかるを、この五十余年に、法然という大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、珠に似たる石をもって珠を投げさせ、石をとらせたるなり。止観の五に云わく「瓦礫を貴んで明珠なりとす」
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(296)南条兵衛七郎殿御書 | 文永元年(’64)12月13日 | 43歳 | 南条兵衛七郎 |