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田を作るがごとし。時があわざるなり〈これ三〉。
国をしるべし。国に随って人の心不定なり。たとえば、江南の橘の淮北にうつされてからたちとなる。心なき草木すらところによる。まして心あらんもの、何ぞ所によらざらん。
されば、玄奘三蔵の西域と申す文に天竺の国々を多く記したるに、国の習いとして、不孝なる国もあり、孝の心ある国もあり。瞋恚のさかんなる国もあり、愚癡の多き国もあり。一向に小乗を用いる国もあり、一向大乗を用いる国もあり、大小兼学する国もありと見え侍り。また一向に殺生の国、一向に偸盗の国、また穀の多き国、また粟等の多き国、不定なり。
そもそも日本国はいかなる教えを習ってか生死を離るべき国ぞと勘えたるに、法華経に云わく「如来滅して後において、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」等云々。この文の心は、法華経は南閻浮提の人のための有縁の経なり。弥勒菩薩云わく「東方に小国有り。ただ大機のみ有り」等云々。この論の文のごときは、閻浮提の内にも、東の小国に大乗経の機あるか。肇公、記して云わく「この典、東北の小国に有縁なり」等云々。法華経は東北の国に縁ありとかかれたり。安然和尚云わく「我が日本国には皆大乗を信ず」等云々。恵心、一乗要決に云わく「日本一州、円機純一なり」等云々。
釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・恵心先徳等の心ならば、日本国は純らに法華経の機なり。一句一偈なりとも行ぜば、必ず得道なるべし。有縁の法なるが故なり。たとえば、くろがねを磁石のすうがごとし。方諸の水をまねくににたり。念仏等の余善は無縁の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(296)南条兵衛七郎殿御書 | 文永元年(’64)12月13日 | 43歳 | 南条兵衛七郎 |