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法千年なり。破戒の者は多く、得道すくなし。像法千年の後は末法万年なり。持戒もなし、破戒もなし、無戒の者のみ国に充満せん。しかも濁世と申してみだれたる世なり。清世と申してすめる世には、直縄のまがれる木をけずらするように、非をすて是を用いるなり。正像より五濁ようよういできたりて、末法になり候えば五濁さかりにすぎて、大風の大波をおこしてきしをうつのみならず、また波と波とをうつなり。見濁と申すは、正像ようようすぎぬれば、わずかの邪法の一つをつたえて無量の正法をやぶり、世間の罪にて悪道におつるものよりも、仏法をもって悪道に堕つるもの多しとみえはんべり。
しかるに、当世は、正像二千年すぎて末法に入って二百余年、見濁さかりにして、悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり。悪は、愚癡の人も悪としれば、したがわぬ辺もあり。火を水をもってけすがごとし。善は、ただ善と思うほどに、小善に付いて大悪の起こることをしらず。ゆえに伝教・慈覚等の聖跡あり、すたれ、あばるれども、「念仏堂にあらず」といいてすておきて、そのかたわらにあたらしく念仏堂をつくり、かの寄進の田畠をとりて念仏堂によす。これらは、像法決疑経の文のごとくならば、功徳すくなしと見えはんべり。これらをもちてしるべし。善なれども、大善をやぶる小善は、悪道に堕つるなるべし。
今の世は末法のはじめなり。小乗経の機、権大乗経の機、みなうせはてて、ただ実大乗経の機のみあり。小船には大石をのせず。悪人・愚者は大石のごとし。小乗経ならびに権大乗経・念仏等は小船なり。大悪瘡の湯治等は、病大なれば小治およばず。末代濁世の我らには、念仏等は、たとえば、冬、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(296)南条兵衛七郎殿御書 | 文永元年(’64)12月13日 | 43歳 | 南条兵衛七郎 |