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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

づく』と」。
 「問うて云わく、天真独朗の止観の時、一念三千・一心三観の義を立つや。
 答えて云わく、両師の伝不同なり。座主云わく『天真独朗とは、一念三千の観これなり。山家師云わく、一念三千しかも指南となす。一念三千とは、一心より三千を生ずるにもあらず、一心に三千を具するにもあらず、並立にもあらず、次第にもあらず。故に、理非造作と名づく』。
 和尚云わく『天真独朗においてもまた多種有り。乃至、迹中に明かすところの不変真如もまた天真なり。ただし、大師本意の天真独朗とは、三千・三観の相を亡ぼし、一心・一念の義を絶す。この時は解無く、行無し。教・行・証の三箇の次第を経るの時、行門において一念三千の観を建立す。故に十章の第七の処において始めて観法を明かす。これ因果階級の意なり』と」。
 「大師内証の伝の中に『第三の止観には伝転の義無し』云々。故に知んぬ、証分の止観は別法を伝えざることを。今、止観の始終に録するところの諸事は、皆これ教・行の摂むるところにして、実証の分にあらず。開元符州の玄師の相伝に云わく『言をもってこれを伝うる時は、行・証共に教と成り、心をもってこれを観ずる時は、教・証は行の体と成る。証をもってこれを伝うる時は、教・行また不可思議なり』。後学、この語に意を留めて、さらに忘失することなかれ。あたかもこの宗の本意、立教の元旨なり。和尚の貞元の本義、源これより出でたるなり」。
 問うて云わく、天真独朗の法、滅後においていずれの時にか流布せしむべきや。
 答えて云わく、像法において弘通すべきなり。