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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

種々の災難に相値って、身命を惜しまずして南無妙法蓮華経と唱え候は、正師か邪師か、能く能く御思惟これ有るべく候。
 上に挙ぐるところの諸宗の人々は、「我こそ法華経の意を得て、法華経を修行する者よ」と名乗り候えども、予がごとく、弘長には伊豆国に流され、文永には佐渡島に流され、あるいは竜の口の頸の座等、この外種々の難、数を知らず。経文のごとくならば、予は正師なり善師なり、諸宗の学者はことごとく邪師なり悪師なりと覚しめし候え。この外、善悪二師を分別する経論の文等これ広く候えども、兼ねて御存知の上は申すに及ばず候。
 只今の御文に、「今より以後は日比の邪師を捨てて、ひとえに正師と憑む」との仰せは不審に覚え候。我らが本師・釈迦如来、法華経を説かんがために出世ましませしには、他方の仏菩薩等、来臨・影響して釈尊の行化を助け給う。されば、釈迦・多宝・十方の諸仏等の御使いとして来って、化を日域に示し給うにもやあるらん。経に云わく「我は余国において、化人を遣わして、それがために聴法の衆を集め、また化を遣わして○随順して逆らわじ」。この経文に「比丘」と申すは、貴辺のことなり。その故は、「法を聞いて信受し、随順して逆らわじ」、眼前なり。いかでか、これを疑い奉るべきや。たとい、また「在々諸仏土、常与師俱生(いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず)」の人なりとも、三周の声聞のごとく、下種の後に退大取小して五道六道に沈輪し給いしが、成仏の期来至して、順次に得脱せしめたもうべきゆえにや、念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて、日蓮が弟子となり給うらん。有り難きことなり。