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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

度に二度三度、その教えに随いもて行くほどに、終に悪人になるなり。釈に云わく「もし人、本悪無きも、悪人に親近せば、後必ず悪人と成り、悪名天下に遍からん」云々。
 詮ずるところ、その邪悪の師とは、今の世の法華誹謗の法師なり。涅槃経に云わく「菩薩は、悪象等においては心に恐怖なく、悪智識においては怖畏の心を生ず。悪象に殺されては三趣に至らず、悪友に殺されては必ず三趣に至る」。法華経に云わく「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲なり」等云々。先々申し候ごとく、善無畏・金剛智・達磨・慧可・善導・法然・東寺の弘法・園城寺の智証・山門の慈覚・関東の良観等の諸師は、今経の「正直に方便を捨てて」の金言を読み候には、「正直に実教を捨てて、ただ方便の教えのみを説く」と読み、あるいは「諸経の中において最もその上に在り」の経文をば「諸経の中において最もその下に在り」と、あるいは「法華最第一」の経文をば「法華最第二・第三」等と読む。故に、これらの法師原を邪悪の師と申し候なり。
 さて、正善の師と申すは、釈尊の金言のごとく「諸経は方便、法華は真実」と正直に読むを申すべく候なり。華厳の七十七の入法界品これを見るべし云々。法華経に云わく「善知識とは、これ大因縁なり。いわゆる、化導して、仏を見、阿耨菩提を発すことを得しむ」等云々。仏説のごとくんば、正直に四味三教・小乗・権大乗の方便の諸経、念仏・真言・禅・律等の諸宗ならびに依るところの経を捨てて、ただ「唯以一大事因縁(ただ一大事の因縁をもって)」の妙法蓮華経を説く師を正師・善師とは申すべきなり。
 しかるに、日蓮、末法の初めの五百年に、生を日域に受け、如来の記文のごとく三類の強敵を蒙り、