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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 いずれの辺に付いても、予がごとく諸宗の謗法を責め、彼らをして邪を捨てて正に帰せしめ給いて、順次に、三仏座を並べたもう常寂光土に詣でて、釈迦・多宝の御宝前において、我ら無始より已来師弟の契約有りけるか無かりけるか、また釈尊の御使いとして来って化し給えるか、さぞと仰せを蒙ってこそ、我が心にも知られ候わんずれ。いかようにも、はげませ給え、はげませ給え。
 何となくとも、貴辺に去ぬる二月の比より大事の法門を教え奉りぬ。結句は卯月八日夜半、寅時に、妙法の本円戒をもって受職灌頂せしめ奉るものなり。この受職を得るの人、いかでか現在なりとも妙覚の仏に成らざらん。もし今生妙覚ならば、後生あに等覚等の因分ならんや。実に無始曠劫の契約、「常与師俱生」の理ならば、日蓮今度成仏せんに、貴辺あに相離れて悪趣に堕在したもうべきや。如来の記文、仏意の辺においては、世・出世についてさらに妄語無し。しかるに、法華経には「我滅度して後において、応にこの経を受持すべし。この人は仏道において、決定して疑いあることなけん」、あるいは「速やかにこれ疾く無上の仏道を得ん」等云々。この記文虚しくして我らが成仏今度虚言ならば、諸仏の御舌もきれ、多宝の塔も破れ落ち、二仏並座は無間地獄の熱鉄の牀となり、方・実・寂の三土は地・餓・畜の三道と変じ候べし。いかでか、さること候べきや。あらたのもし、たのもし。かくのごとく思いつづけ候えば、我らは流人なれども、身心共にうれしく候なり。
 大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあじわう。かくのごとく過ぎ行き候えば、年月を送れども久しからず、過ぐる時刻も程あらず。例せば、釈迦・多宝の二仏、塔中に並座して法華の妙理をうなずき合い給いし時、「五十小劫、仏の神力の故に諸の大衆をして半日のごとしと謂わ