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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

なしとおもいしに、こぞの三月の二十一日にわかれにしが、こぞもまちくらせどもみゆることなし。今年もすでに七つきになりぬ。たといわれこそ来らずとも、いかにおとずれはなかるらん。ちりし花もまたさきぬ。おちし菓もまたなりぬ。春の風もかわらず、秋のけしきもこぞのごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、本のごとくなかるらん。月は入ってまたいでぬ。雲はきえてまた来る。この人の出でてかえらぬことこそ天もうらめしく地もなげかしく候えとこそおぼすらめ。いそぎいそぎ法華経をろうりょうとたのみまいらせ給いて、りょうぜん浄土へまいらせ給いて、みまいらせさせ給うべし。
 そもそも、子はかたきと申す経文もあり。「世人、子のために衆の罪を造る」の文なり。鵰・鷲と申すとりは、おやは慈悲をもって養えば、子はかえりて食とす。梟鳥と申すとりは、生まれては必ず母をくらう。畜生かくのごとし。人の中にも、はるり王は心もゆかぬ父の位を奪い取る。阿闍世王は父を殺せり。安禄山は養母をころし、安慶緒と申す人は父・安禄山を殺す。安慶緒は子・史思明に殺されぬ。史思明は史朝義と申す子にまたころされぬ。これは敵と申すもことわりなり。善星比丘と申すは教主釈尊の御子なり。苦得外道をかたらいて、度々父の仏を殺し奉らんとす。
 また、子は財と申す経文もはんべり。所以は経文に云わく「その男、福を追修するをもって、大光明有って地獄を照らし、その父母をして信心を発さしむ」等云々。たとい仏説ならずとも、眼の前に見えて候。
 天竺に安息国王と申せし大王は、あまりに馬をこのみてかいしほどに、後にはかいなれて鈍馬を竜馬となすのみならず、牛を馬ともなす。結句は人を馬となしてのり給いき。その国の人、あまりになげきしかば、知らぬ国の人を馬となす。他国の商人ゆきたりしかば、薬をかいて馬となして、御まや