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聖賢にはあらず。今、日蓮は、聖にも賢にもあらず、持戒にも無戒にも、有智にも無智にも当たらず。しかれども、法華経の題目の流布すべき後五百歳、二千二百二十余年の時に生まれて、近くは日本国、遠くは月氏・漢土の諸宗の人々唱え始めざる先に、南無妙法蓮華経と高声によばわりて二十余年をふるあいだ、あるいは罵られ、打たれ、あるいは疵をこうぼり、あるいは流罪に二度、死罪に一度定められぬ。その外の大難、数をしらず。譬えば、大湯に大豆を漬し、小水に大魚の有るがごとし。経に云わく「しかもこの経は、如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」。また云わく「一切世間に怨多くして信じ難し」。また云わく「諸の無智の人の、悪口・罵詈するもの有らん」。あるいは云わく「刀杖瓦石を加う」。あるいは「しばしば擯出せられん」等云々。これらの経文は、日蓮日本国に生ぜずんば、ただ仏の御言のみ有って、その義空しかるべし。譬えば、花さき菓ならず、雷なりて雨ふらざらんがごとし。仏の金言空しくして正直の御経に大妄語を雑えたるなるべし。これらをもって思うに、恐らくは天台・伝教の聖人にも及ぶべし。また老子・孔子をも下しぬべし。
日本国の中にただ一人、南無妙法蓮華経と唱えたり。これは須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露なり。二人・三人・十人・百人、一国・二国、六十六箇国、すでに島二つにも及びぬらん。今は謗ぜし人々も唱え給うらん。また上一人より下万民に至るまで、法華経の神力品のごとく、一同に南無妙法蓮華経と唱え給うこともやあらんずらん。
木はしずかならんと思えども風やまず、春を留めんと思えども夏となる。日本国の人々は、法華経は尊けれども日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えまじとことわり給うとも、今、一度も二度も
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(251)妙密上人御消息 | 建治2年(’76)閏3月5日 | 55歳 | 妙密 |