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舌は八葉の蓮華なり。この重なる蓮華の上に宝珠あり。妙の一字なり。
この妙の珠は、昔、釈迦如来の、檀波羅蜜と申して、身をうえたる虎にかいし功徳、鳩にかえし功徳、尸羅波羅蜜と申して、須陀摩王としてそらごとせざりし功徳等、忍辱仙人として歌梨王に身をまかせし功徳、能施太子、尚闍梨仙人等の六度の功徳を、妙の一字におさめ給いて、末代悪世の我ら衆生に、一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたえ給う。「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」、これなり。我ら具縛の凡夫、たちまちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云わく「我がごとく等しくして異なることなし」等云々。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。
譬えば、父母和合して子をうむ。子の身は全体父母の身なり。誰かこれを諍うべき。牛王の子は牛王なり。いまだ師子王とならず。師子王の子は師子王となる。いまだ人王・天王等とならず。今、法華経の行者は、「その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」と申して教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならんこと難かるべからず。
ただし、不孝の者は父母の跡をつがず。尭王には丹朱という太子あり。舜王には商均と申す王子あり。二人共に不孝の者なれば、父の王にすてられて現身に民となる。重華と禹とは共に民の子なり。孝養の心ふかかりしかば、尭・舜の二王召して位をゆずり給いき。民の身、たちまちに玉体にならせ給いき。民の現身に王となると、凡夫のたちまちに仏となると、同じことなるべし。一念三千の肝心と申すはこれなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(240)日妙聖人御書 | 文永9年(’72)5月25日 | 51歳 | 日妙 |