狼に食われて一分の功徳なかるべし。後の八字にかえなば、糞を飯にかうるがごとし」。鬼云わく「我いまだ信ぜず」。童子云わく「証人あり。過去の仏もたて給いし大梵天王・釈提桓因・日月・四天も証人にたち給うべし」。この鬼神、「後の偈をとかん」と申す。童子、身にきたる鹿の皮をぬいで座にしき、踞跪・合掌して「この座につき給え」と請ず。大鬼神、この座について説いて云わく「生滅滅已、寂滅為楽(生滅滅し已わって、寂滅を楽となす)」等云々。この偈を習い学して、もしは木、もしは石等に書き付けて、身を大鬼神の口になげいれ給う。彼の童子は今の釈尊、彼の鬼神は今の帝釈なり。
薬王菩薩は、法華経の御前に臂を七万二千歳が間ともし給い、不軽菩薩は、多年が間、二十四字のゆえに無量無辺の四衆に「罵詈毀辱」「杖木・瓦礫而打擲之(杖木・瓦礫もて、これを打擲す)」せられ給いき。いわゆる二十四字と申すは、「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏(我は深く汝等を敬い、あえて軽慢せず。所以はいかん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり)」等云々。かの不軽菩薩は今の教主釈尊なり。昔の須頭檀王は、妙法蓮華経の五字のために、千歳が間、阿私仙人にせめつかわれ、身を床となさせ給いて今の釈尊となり給う。
しかるに、妙法蓮華経は八巻なり。八巻を読めば十六巻を読むなるべし、釈迦・多宝の二仏の経なる故。十六巻は無量無辺の巻軸なり、十方の諸仏の証明ある故に。一字は二字なり、釈迦・多宝の二仏の字なる故。一字は無量の字なり、十方の諸仏の証明の御経なる故に。譬えば、如意宝珠の玉は、一珠なれども、二珠、乃至無量珠の財をふらすこと、これおなじ。法華経の文字は、一字は一つの宝、無量の字は無量の宝珠なり。妙の一字には二つの舌まします。釈迦・多宝の御舌なり。この二仏の御
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(240)日妙聖人御書 | 文永9年(’72)5月25日 | 51歳 | 日妙 |