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の所説ありや。また人ごとに念仏阿弥陀等これを讃す。また前のごとし。詮ずるところ、和漢両国の念仏宗、法華経を雑行なんど捨閉閣抛する本経・本論を尋ぬべし。もし慥かなる経文なくんば、かくのごとく権経より実経を謗ずる過罪、法華経の譬喩品のごとくんば、阿鼻大城に堕落して展転無数劫を経歴し給わんずらん。彼の宗の僻謬を本としてこの三世諸仏の「皆これ真実なり」の証文を捨つる、その罪、「実に」と諸人に評判せさすべし。心有らん人、誰か実否を決せざらんや。しかして後に彼の宗の人師をあながちに破すべし。
一経の株を見て万経の勝劣を知らざること、未練なる者かな。その上、我と見明らめずとも、釈尊ならびに多宝・分身の諸仏の定判し給える経文、法華経ばかり皆是真実なるを不真実、未顕真実を已顕真実と僻める眼は、牛羊の所見にも劣れる者なるべし。法師品の已今当、無量義経の歴劫修行・未顕真実いかなることぞや。五十余年の諸経の勝劣ぞかし。諸経の勝劣は成仏の有無なり。慈覚・智証の理同事勝の眼、善導・法然の余行非機の目、禅宗が教外別伝の所見は、東西動転の眼目、南北不弁の妄見なり。牛羊よりも劣り、蝙蝠鳥にも異ならず。「法に依って人に依らざれ」の経文、「この経を毀謗せば」の文をば、いかに恐れさせ給わざるや。悪鬼入其身して、無明の悪酒に酔い沈み給うらん。
一切は現証にはしかず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有り様、実に正法の行者、かくのごとくにあるべく候や。観仏相海経等の諸経ならびに竜樹菩薩の論文いかんが候や。一行禅師の筆受の妄語、善無畏のたばかり、弘法の戯論、慈覚の理同事勝、曇鸞・道綽が余行非機、かくのごとき人々の所見は、権経・権宗の虚妄の仏法の習いにてや候らん。「それほどにうらやましく
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(239)教行証御書 | 文永12年(’75)3月21日* | 三位房 |