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沾わん」等云々。これ末法万年を指せる経釈にあらずや。法華経第六の分別功徳品に云わく「悪世末法の時、能くこの経を持たば」。安楽行品に云わく「末法の中において、この経を説かんと欲す」。これらは皆、末法万年という経文なり。彼々の経々の説は「四十余年にはいまだ真実を顕さず」なり。あるいは結集者の意に拠るか。依用し難し。
拙いかな諸宗の学者、法華経の下種を忘れ、三・五の塵点の昔を知らず、純円の妙経を捨ててまた生死の苦海に沈まんことよ。円機純熟の国に生を受けていたずらに無間大城に還らんこと、不便とも申すばかり無し。崑崙山に入りし者の一つの玉をも取らずして貧国に帰り、栴檀林に入って瞻蔔を蹈まずして瓦礫の本国に帰る者に異ならず。第三の巻に云わく「飢えたる国より来って、たちまちに大王の膳に遇うがごとし」。第六に云わく「我がこの土は安穏にして、我が浄土は毀れず」等云々。
状に云わく、難問に云わく「爾前当分の得道」等云々。
涅槃経第三の「善男子よ。応当に修習すべし」の文を立つべし。これを受けて弘決第三に「いわゆる、久遠に必ず大無くんば」と会して、爾前の諸経にして得道せし者は、久遠の初業に依るなるべしと云って、一分の益これ無きことを治定して、その後、滅後の弘経においてもまたまたかくのごとく、正像の得益証果の人は在世の結縁に依るなるべし等云々。また彼が何度も爾前の得道を云わば、無量義経に四十余年の経々を、仏我と「いまだ真実を顕さず」と説き給えば、我らがごとき名字の凡夫は仏説に依ってこそ成仏を期すべく候え、人師の言語は無用なり、涅槃経には「法に依って人に依らざれ」と説かれて大いに制せられて候えばなんど立てて、「いまだ真実を顕さず」と打ち捨て打ち捨て、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(239)教行証御書 | 文永12年(’75)3月21日* | 三位房 |