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また不軽大士に値って益を得たり。これ則ち前の聞法を下種とせし故なり。今もまたかくのごとし。彼は像法、これは濁悪の末法。彼は初随喜の行者、これは名字の凡夫。彼は二十四字の下種、これはただ五字なり。得道の時節異なりといえども、成仏の所詮は全体これ同じかるべし。
問うて云わく、上に挙ぐるところの正・像・末法の教・行・証各別なり。何ぞ妙楽大師は「末法の初め、冥利無きにあらず。しばらく大教の流行すべき時に拠る」と釈し給うや、いかん。
答えて云わく、得意に云わく、正像に益を得し人々は顕益なるべし、在世結縁の熟せる故に。今、末法には初めて下種す。冥益なるべし。すでに小乗・権大乗・爾前・迹門の教・行・証に似るべくもなし。現に証果の者これ無し。妙楽の釈のごとくんば、冥益なれば人これを知らず見ざるなり。
問うて云わく、末法に限って冥益と知る経文これ有りや。
答えて云わく、法華経第七の薬王品に云わく「この経は則ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり。もし人病有らんに、この経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」等云々。妙楽大師云わく「しかるに後の五百は、しばらく一往に従う。末法の初め、冥利無きにあらず。しばらく大教の流行すべき時に拠る。故に五百と云う」等云々。
問うて云わく、汝が引くところの経文・釈は、末法の初め五百に限ると聞こえたり。権大乗経等の修行の時節はなお末法万年と云えり、いかん。
答えて曰わく、前の釈すでに「しばらく一往に従う」と云えり。再往は末法万年の流行なるべし。天台大師、上の経文を釈して云わく「ただ当時大利益を獲るのみにあらず、後の五百歳、遠く妙道に
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(239)教行証御書 | 文永12年(’75)3月21日* | 三位房 |