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華経は能開、念仏は所開なり。法華経の行者は、一期南無阿弥陀仏と申さずとも、南無阿弥陀仏ならびに十方の諸仏の功徳を備えたり。譬えば、如意宝珠のごとし。金銀等の財を備えたるか。念仏は一期申すとも、法華経の功徳をぐすべからず。譬えば、金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし。譬えば、三千大千世界に積みたる金銀等の財も、一つの如意宝珠をばかうべからず。
たとい開会をさとれる念仏なりとも、なお体内の権なり、体内の実に及ばず。いかにいわんや、当世に開会を心えたる智者も少なくこそおわせんずらめ。たといさる人ありとも、弟子・眷属・所従なんどはいかんがあるべかるらん。愚者は、智者の念仏を申し給うをみては、念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候わじ。また南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候わんずらん。当世に父母を殺す人よりも、謀反おこす人よりも、天台・真言の学者といわれて善公が礼讃をうたい然公が念仏をさえずる人々はおそろしく候なり。
この文を、止観よみあげさせ給いて後、ふみのざの人にひろめてわたらせ給うべし。止観よみあげさせ給わば、すみやかに御わたり候え。沙汰のことは、本より日蓮が道理だにもつよくば事切れんことかたしと存じて候いしが、人ごとに「問注は、法門にはにず、いみじゅうしたり」と申し候なるときに、事切るべしともおぼえ候わず。少弼殿より平三郎左衛門のもとにわたりて候とぞうけたまわり候。このことのび候わば、問注はよきと御心え候え。またいつにても、よも切れぬことは候わじ。また切れずば「日蓮、道理」とこそ人々はおもい候わんずらめ。くるしく候わず候。
当時は、ことに天台・真言等の人々の多く来り候なり。事多き故に留め候い了わんぬ。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(238)十章抄 | 文永8年(’71)5月* | 三位房 |