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真言の人々も実に自宗が叶いがたければ念仏を申すなり。わずらわしくかれを学せんよりは、法華経をよまんよりは、一向に念仏を申して、浄土にして法華経をもさとるべし」と申す。この義、日本国に充満せし故に、天台・真言の学者、在家の人々にすてられて、六十余州の山寺はうせはてぬるなり。
九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりおこり、日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一という義の盛んなりしより、これはじまれり。あわれなるかなや。外道は常・楽・我・浄と立てしかば、仏世にいでまさせ給いては、苦・空・無常・無我ととかせ給いき。二乗は空観に著して大乗にすすまざりしかば、仏誡めて云わく「五逆は仏のたね、塵労の疇は如来の種、二乗の善法は永不成」と嫌わせ給いき。常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども名はよかりしぞかし。しかれども、仏、名をいみ給いき。悪だに仏の種となる。ましてぜんはとこそおぼうれども、仏、二乗に向かっては悪をば許して善をばいましめ給いき。
当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。たといぜんたりとも、義分あたれりというとも、まず名をいむべし。その故は、仏法は国に随うべし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あいわかれたり。震旦またまたかくのごとし。日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗すら、なお相応せず。いかにいわんや小乗の三宗をや。しかるに、当世にはやる念仏宗と禅宗とは、源、方等部より事おこれり。法相・三論・華厳の見を出ずべからず。
南無阿弥陀仏は爾前にかぎる。法華経においては往生の行にあらず。開会の後、仏因となるべし。南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず、ただ法華八箇年にかぎる。南無阿弥陀仏に開会せられず。法
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(238)十章抄 | 文永8年(’71)5月* | 三位房 |