1665ページ
ず円に依る」と申して、文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども、心は必ず法華経なり。「諸文を散引すること一代を該ぬれども、文の体の正意はただ二経のみに帰す」と申す、これなり。
止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。「前の六重は修多羅に依る」と申して、大意より方便までの六重は先の四巻に限る。これは妙解にして、迹門の心をのべたり。「今は妙解に依って、もって正行を立つ」と申すは、第七の正観、十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千これよりはじまる。一念三千と申すことは迹門にすらなお許されず。いかにいわんや、爾前に分たえたることなり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。ただし、真実の依文判義は本門に限るべし。
されば、円の行まちまちなり。沙をかずえ、大海をみる、なお円の行なり。いかにいわんや、爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。ただし、これらは時々の行なるべし。真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべきことは南無妙法蓮華経なり。心に存すべきことは一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には、ただ一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。
名は必ず体にいたる徳あり。法華経に十七種の名あり。これ通名なり。別名は、三世の諸仏、皆、南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり。阿弥陀・釈迦等の諸仏も、因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。
これらをしらざる天台・真言等の念仏者、口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあいだ、在家の者は一向に念うよう、「天台・真言等は念仏にてありけり」。また善導・法然が一門は、「すわすわ、天台・
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(238)十章抄 | 文永8年(’71)5月* | 三位房 |