SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

(238)

十章抄

 文永8年(ʼ71)5月* 三位房

 華厳宗と申す宗は、「華厳経の円と法華経の円とは一なり。しかれども、法華経の円は華厳の円の摂末」と云々。法相・三論、またまたかくのごとし。天台宗、彼の義に同ぜば、別宗と立ててなにかせん。例せば、法華・涅槃は一つの円なり、先後によって涅槃なおおとるとさだむ。爾前の円、法華の円を一とならば、先後によりて法華あに劣らざらんや。詮ずるところ、この邪義のおこり、「この妙と彼の妙と」「円なること実には異ならず」「円頓の義は斉し」「前の三つを麤となす」等の釈にばかされて起こる義なり。止観と申すも、円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ。また二の巻の四種三昧は、多分は念仏と見えて候なり。「源濁れば流れ清からず」と申して、爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば、ただ念仏者のごとくにて候なり。
 ただし、止観は迹門より出でたり、本門より出でたり、本迹に亘ると申す三つの義、いにしえよりこれあり。これはしばらくこれをおく。「故に知んぬ、一部の文共に円乗開権の妙観を成ずることを」と申して、止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり。爾前の経々をひき、乃至外典用いて候も、爾前・外典の心にはあらず。文をばかれども義をばけずりすてたるなり。「境は昔に寄すといえども、智は必