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そえて、水をまし、光を添うると思しめすべし。
まず、法華経と申すは、八巻・一巻・一品・一偈・一句、乃至、題目を唱うるも、功徳は同じことと思しめすべし。譬えば、大海の水は一滴なれども、無量の江河の水を納めたり。如意宝珠は一珠なれども、万宝をふらす。百千万億の滴珠もまたこれ同じ。法華経は一字も一つの滴珠のごとし。乃至万億の字も、また万億の滴珠のごとし。諸経・諸仏の一字・一名号は、江河の一滴の水、山海の一石のごとし。一滴に無量の水を備えず、一石に無数の石の徳をそなえもたず。もししからば、この法華経はいずれの品にても御坐しませ、ただ御信用の御坐しまさん品こそめずらしくは候え。
総じて、如来の聖教はいずれも妄語の御坐しますとは承り候わねども、再び仏教を勘えたるに、如来の金言の中にも大小・権実・顕密なんど申すこと、経文より事起こって候。したがって、論師・人師の釈義にあらあら見えたり。詮を取って申さば、釈尊の五十余年の諸教の中に、先四十余年の説教はなおうたがわしく候ぞかし。仏自ら無量義経に「四十余年にはいまだ真実を顕さず」と申す経文、まのあたり説かせ給える故なり。法華経においては、仏自ら、一句の文字を「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」と定めさせ給いぬ。その上、多宝仏、大地より涌き出でさせ給いて「妙法華経は、皆これ真実なり」と証明を加え、十方の諸仏、皆法華経の座にあつまりて、舌を出だして、法華経の文字は一字なりとも妄語なるまじきよし、助成をそえ給えり。譬えば、大王と后と長者等の一味同心に約束をなせるがごとし。
もし、法華経の一字をも唱えん男女等、十悪・五逆・四重等の無量の重業に引かれて悪道におつる
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(234)月水御書 | 文永元年(’64)4月17日 | 43歳 | 大学三郎の妻 |