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百王の頂にやどらんと誓い給いしかども、人王八十一代安徳天皇・二代隠岐法皇・三代阿波・四代佐渡・五代東一条等の五人の国王の頂にはすみ給わず。諂曲の人の頂なる故なり。頼朝と義時とは臣下なれども、その頂にはやどり給う。正直なる故か。これをもって思うに、法華経の人々は正直の法につき給う故に、釈迦仏なおこれをまぼり給う。いわんや、垂迹の八幡大菩薩、いかでか、これをまぼり給わざるべき。
浄き水なれども、濁りぬれば月やどることなし。糞水なれども、すめば影を惜しみ給わず。濁水は清けれども月やどらず。糞水はきたなけれども、すめば影をおしまず。濁水は、智者・学匠の持戒なるが法華経に背くがごとし。糞水は、愚人の無戒なるが、貪欲ふかく瞋恚強盛なれども、法華経ばかりを無二無三に信じまいらせてあるがごとし。
涅槃経と申す経には法華経の得道の者を列ねて候に、蜣・蜋・蝮・蠍と申して糞虫を挙げさせ給う。竜樹菩薩は法華経の不思議を書き給うに、「蜫虫と申して糞虫を仏になす」等云々。また、涅槃経に法華経にして仏になるまじき人をあげられて候には、「一闡提の人の、阿羅漢のごとく、大菩薩のごときもの」等云々。これらは、濁水は浄けれども月の影を移すことなしと見えて候。
されば、八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては、いかでか、その影をばおしみ給うべき。我が一門は深くこの心を信ぜさせ給うべし。八幡大菩薩は、ここにわたらせ給うなり。疑い給うことなかれ、疑い給うことなかれ。恐々謹言。
十二月十六日 日蓮 花押
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(222)四条金吾許御文 | 弘安3年(’80)12月16日 | 59歳 | 四条金吾 |