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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 また釈迦如来は、住劫第九の減、人寿百歳の時、浄飯王を父とし摩耶夫人を母として、中天竺伽毘羅衛国らんびに園と申す処にて、甲寅の年四月八日に生まれさせ給いぬ。八十年を経て、東天竺俱尸那城跋提河の辺にて、二月十五日壬申にかくれさせ給いぬ。今の八幡大菩薩もまたかくのごとし。月氏と日本と父母はかわれども、四月八日と甲寅と、二月十五日と壬申とはかわることなし。仏滅度の後二千二百二十余年が間、月氏・漢土・日本、一閻浮提の内に、聖人・賢人と生まるる人をば皆釈迦如来の化身とこそ申せども、かかる不思議はいまだ見聞せず。
 かかる不思議の候上、八幡大菩薩の御誓いは、月氏にては法華経を説いて「正直に方便を捨つ」となのらせ給い、日本国にしては「正直の頂にやどらん」と誓い給う。しかるに、去ぬる十一月十四日の子時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給いぬる故をかんがえ候に、この神は正直の人の頂にやどらんと誓えるに、正直の人の頂の候わねば、居処なき故に、栖なくして天にのぼり給いけるなり。
 日本国の第一の不思議には、釈迦如来の国に生まれて、この仏をすてて一切衆生皆一同に阿弥陀仏につけり。有縁の釈迦をばすて奉り、無縁の阿弥陀仏をあおぎたてまつりぬ。その上、親父・釈迦仏の入滅の日をば阿弥陀仏につけ、また誕生の日をば薬師になしぬ。八幡大菩薩をば崇むるようなれども、また本地を阿弥陀仏になしぬ。本地・垂迹を捨つる上に、このことを申す人をばかたきとする故に、力及ばせ給わずしてこの神は天にのぼり給いぬるか。
 ただし、月は影を水にうかぶる。濁れる水には栖むことなし。木の上・草の葉なれども澄める露には移ることなれば、かならず国主ならずとも正直の人のこうべにはやどり給うなるべし。しかれば、