1617ページ
いなり。
日蓮が心は全く如来の使いにはあらず。凡夫なる故なり。ただし、三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値えば、如来の御使いに似たり。心は三毒ふかく、一身凡夫にて候えども、口に南無妙法蓮華経と申せば、如来の使いに似たり。過去を尋ぬれば、不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに、「刀杖瓦石を加う」にたがうことなし。未来は当詣道場疑いなからんか。これをやしなわせ給う人々は、あに同居浄土の人にあらずや。事多しと申せども、とどめ候。心をもって計らせ給うべし。
ちごのそろう、よくなりたり。悦び候ぞ。また、大進阿闍梨の死去のこと、「末代のぎば、いかでか、これにすぐべき」と、皆人舌をふり候なり。さにて候いけるやらん。三位房がこと、そう四郎がこと、このことはあたかも符契、符契と申しあいて候。日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用いまじく候なり。
九月十五日 日蓮 花押
四条金吾殿
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(218)四条金吾殿御返事(源遠流長の事) | 弘安2年(’79)9月15日 | 58歳 | 四条金吾 |