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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

生の釈迦仏を抛って阿弥陀仏を念じ、法華経を抛って観経等を信ずる人、あるいは、かくのごとき謗法の者を供養せん俗男・俗女等、存外に五逆・七逆・八虐の罪をおかせる者を智者と渇仰する諸の大名僧ならびに国主等なり。「かくのごとく展転して、無数劫に至らん」とは、これなり。
 かくのごとき僻事をなまじいに承って候あいだ、次いでをもって申さしめ候。宮仕えをつかまつる者、上下ありと申せども、分々に随って主君を重んぜざるは候わず。上の御ため、現世・後生あしくわたらせ給うべきことを秘かにも承って候わんに、傍輩・世に憚って申し上げざらんは与同罪にこそ候まじきか。
 したがって、頼基は父子二代、命を君にまいらせたること顕然なり。故親父〈中務某〉、故君の御勘気かぶらせ給いける時、数百人の御内の臣等心がわりし候いけるに、中務一人、最後の御供奉して伊豆国まで参って候いき。頼基は去ぬる文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦の時、折節、伊豆国に候いしかば、十日の申時に承って、ただ一人筥根山を一時に馳せ越えて、御前に自害すべき八人の内に候いき。自然に世しずまり候いしかば、今に君も安穏にこそわたらせ給い候え。爾来、大事・小事につけて、御心やすき者にこそ思い含まれて候。頼基が今さら何につけて疎縁に思いまいらせ候べき。後生までも随従しまいらせて、頼基成仏し候わば、君をもすくいまいらせ、君成仏しましまさば、頼基もたすけられまいらせんとこそ存じ候え。
 それについて諸僧の説法を聴聞仕って、いずれか成仏の法とうかがい候ところに、日蓮聖人御房は、三界の主・一切衆生の父母たる釈迦如来の御使い上行菩薩にて御坐しまし候いけることの法華経