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に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。
今こそ真言宗と申す悪法、日本国に渡って四百余年、去ぬる延暦二十四年に伝教大師日本国にわたし給いたりしかども、「この国にあしかりなん」と思しめし候あいだ、宗の字をゆるさず、天台法華宗の方便となし給い畢わんぬ。その後、伝教大師御入滅の次いでをうかがいて、弘法大師、伝教に偏執して宗の字を加えしかども、叡山は用いることなかりしほどに、慈覚・智証、短才にして、二人の身は当山に居ながら心は東寺の弘法に同意するかの故に、我が大師には背いて始めて叡山に真言宗を立てぬ。日本亡国の起こり、これなり。爾来三百余年、あるいは真言勝れ、法華勝れ、一同なんど諍論事きれざりしかば、王法も左右なく尽きざりき。人王七十七代後白河法皇の御宇に、天台の座主・明雲、一向に真言の座主になりしかば、明雲は義仲にころされぬ。「頭破れて七分に作る」これなり。
第八十二代隠岐法皇の御時、禅宗・念仏宗出来して、真言の大悪法に加えて国土に流布せしかば、天照太神・正八幡の百王・百代の御誓いやぶれて、王法すでに尽きぬ。関東の権大夫義時に、天照太神・正八幡の御計らいとして国務をつけ給い畢わんぬ。ここに彼の三つの悪法、関東に落ち下って、存外に御帰依あり。故に、梵釈二天・日月・四天いかりを成し、先代未有の天変地夭をもっていさむれども、用い給わざれば、隣国に仰せ付けて法華経誹謗の人を治罰し給うあいだ、天照太神・正八幡も力及び給わず。日蓮聖人一人、このことを知ろしめせり。かくのごとき厳重の法華経にておわして候あいだ、主君をも導きまいらせんと存じ候故に、無量の小事をわすれて今に仕われまいらせ候。頼基を讒言申す仁は、君の御為不忠の者に候わずや。御内を罷り出でて候わば、君たちまちに無間地
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(207)頼基陳状 | 建治3年(’77)6月25日 | 56歳 |