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たその辺りに頼基しらぬもの候わず。ただ頼基をそねみ候人のつくり事にて候にや。早々召し合わせられん時、その隠れ有るべからず候。
また仰せ下さるる状に云わく「極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉る」。
この条、難かんの次第に覚え候。その故は、日蓮聖人は御経にとかれてましますがごとくば、久成如来の御使い、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五の五百歳の大導師にて御座しまし候聖人を頸をはねらるべき由の申し状を書いて殺罪に申し行われ候いしが、いかが候いけん、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候いしは、良観上人の所行に候わずや。その訴状は別紙にこれ有り。そもそも、生き草をだに伐るべからずと、六斎、日夜の説法に給われながら、法華正法を弘むる僧を断罪に行わるべき旨申し立てらるるは、自語相違に候わずや、いかん。この僧、あに天魔の入れる僧に候わずや。
ただし、この事の起こりは、良観房常の説法に云わく、日本国の一切衆生を皆持斎になして、八斎戒を持たせて、国中の殺生、天下の酒を止めんとするところに、日蓮房が謗法に障えられて、この願叶い難き由、歎き給い候あいだ、日蓮聖人この由を聞き給いて、「いかがして彼が誑惑の大慢心をたおして無間地獄の大苦をたすけん」と仰せありしかば、頼基等は「この仰せ、法華経の御方人、大慈悲の仰せにては候えども、当時日本国、別して武家鎌倉の世きらざる人にておわしますを、たやすく仰せあることいかが」と弟子ども同口に恐れ申し候いしほどに、
去ぬる文永八年太歳辛未六月十八日、大旱魃の時、彼の御房、祈雨の法を行って万民をたすけんと
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(207)頼基陳状 | 建治3年(’77)6月25日 | 56歳 |