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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

及びき。三位も文永八年九月十二日の勘気の時は、供奉の一行にてありしかば、同罪に行われて頸をはねらるべきにてありしは、身命を惜しむものにて候か」と申されしかば、
 竜象房、口を閉じて色を変え候いしかば、
 この御房申されしは、「これ程の御智慧にては、人の不審をはらすべき由の仰せ無用に候いけり。苦岸比丘・勝意比丘等は、我正法を知って人をたすくべき由存せられて候いしかども、我が身も弟子檀那等も無間地獄に堕ち候いき。御法門の分斉にて、そこばくの人を救わんと説き給うがごとくならば、師檀共に無間地獄にや堕ち給わんずらん。今日より後は、かくのごとき御説法は御はからいあるべし。かようには申すまじく候えども、『悪法をもって人を地獄におとさん邪師をみながら責め顕さずば返って仏法の中の怨なるべし』と仏の御いましめのがれがたき上、聴聞の上下、皆悪道におち給わんこと不便に覚え候えば、かくのごとく申し候なり。智者と申すは、国のあやうきをいさめ、人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ。『これはいかなるひが事ありとも、世の恐ろしければいさめじ』と申されん上は力及ばず。某は文殊の智慧も富楼那の弁説も詮候わず」とて立たれ候いしかば、諸人歓喜をなし、掌を合わせ、「今しばらく御法門候えかし」と留め申されしかども、やがて帰り給い了わんぬ。
 この外は別の子細候わず。かつは御推察あるべし。法華経を信じ参らせて仏道を願い候わん者の、いかでか法門の時悪行を企て、悪口を宗とし候べき。しかしながら御きょうざくあるべく候。その上、日蓮聖人の弟子となのりぬる上、罷り帰っても御前に参って法門問答の様かたり申し候いき。ま