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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

実の聖人にておわせば、いかんが身命を惜しんで世にも人にも恐れ給うべき。外典の中にも、竜逢といいし者、比干と申せし賢人は、頸をはねられ胸をさかれしかども、夏の桀・殷の紂をばいさめてこそ賢人の名をば流し候いしか。内典には、不軽菩薩は杖木をかぼり、師子尊者は頭をはねられ、竺の道生は蘇山にながされ、法道三蔵は面に火印をさされて江南にはなたれしかども、正法を弘めてこそ聖人の名をば得候いしか」と難ぜられ候いしかば、
 竜聖人云わく「さる人は末代にはありがたし。我々は世をはばかり、人を恐るる者にて候。さように仰せらるる人とても、ことばのごとくにはよもおわしまし候わじ」と候いしかば、
 「この御房は、いかでか人の心をば知り給うべき。某こそ、当時日本国に聞こえ給う日蓮聖人の弟子として候え。某が師匠の聖人は、末代の僧にて御坐しまし候えども、当世の大名僧のごとく望んで請用もせず、人をも諂わず、いささか異なる悪名もたたず、ただこの国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法ならびに謗法の諸僧満ち満ちて、上一人をはじめ奉って下万民に至るまで御帰依ある故に、法華経・教主釈尊の大怨敵と成って、現世には天神地祇にすてられ他国のせめにあい、後生には阿鼻大城に堕ち給うべき由、経文にまかせて立て給いしほどに、このこと申さば大いなるあだあるべし、申さずんば仏のせめのがれがたし。いわゆる、涅槃経に『もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり』等云々。世に恐れて申さずんば、我が身悪道に堕つべしと御覧じて、身命をすてて、去ぬる建長年中より今年建治三年に至るまで二十余年が間、あえておこたることなし。しかれば、私の難は数を知らず、国王の勘気は両度に