SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

しかば、
 竜上人、答えて云わく「上古の賢哲たちをば、いかでか疑い奉るべき。竜象等がごとくなる凡僧等は、仰いで信じ奉り候」と答え給いしを、
 おし返して、「この仰せこそ智者の仰せとも覚えず候え。誰人か時の代にあおがるる人師等をば疑い候べき。ただし、涅槃経に仏最後の御遺言として、『法に依って人に依らざれ』と見えて候。人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候。御辺は『よもあやまりましまさじ』と申され候。御房の私の語と仏の金言と比べんには、三位は如来の金言に付きまいらせんと思い候なり」と申されしを、
 象上人は「人師にあやまり多しと候は、いずれの人師に候ぞ」と問われしかば、
 「上に申しつるところの弘法大師・法然上人等の義に候わずや」と答え給い候いしかば、
 象上人は「ああ叶い候まじ。我が朝の人師のことは、忝くも問答仕るまじく候。満座の聴衆、皆々その流れにて御座します。鬱憤も出来せば、定めてみだりがわしきこと候いなん。恐れあり、恐れあり」と申されしところに、
 三位房云わく「『人師のあやまり誰ぞ』と候えば、経論に背く人師たちをいだし候いし。『憚りあり。かなうまじ』と仰せ候にこそ、進退きわまりて覚え候え。法門と申すは、人を憚り世を恐れて、仏の説き給うがごとく経文の実義を申さざらんは、愚者の至極なり。智者・上人とは覚え給わず。悪法世に弘まって、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見え候わんに、法師の身として、いかでかいさめず候べき。しからば則ち、法華経には『我は身命を愛せず』、涅槃経には『むしろ身命を喪うとも』等云々。