師云わく『法華経は方便、深密経は真実。無性有情は永く成仏せず』云々。華厳宗の澄観云わく『華厳経は本教、法華経は末教』あるいは『華厳は頓々、法華は漸頓』等云々。三論宗の嘉祥大師云わく『諸大乗経の中には般若教第一』云々。浄土宗の善導和尚云わく『念仏は、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず。法華経等は、千の中に一りも無し』云々。法然上人云わく、法華経を念仏に対して捨閉閣抛、あるいは行者は群賊等云々。禅宗云わく『教外に別伝し、文字を立てず』云々。
教主釈尊は法華経をば『世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし』、多宝仏は『妙法華経は、皆これ真実なり』、十方分身の諸仏は『舌相は梵天に至る』とこそ見えて候に、弘法大師は法華経をば『戯論の法』と書かれたり。釈尊・多宝・十方の諸仏は『皆これ真実なり』と説かれて候。いずれをか信じ候べき。善導和尚・法然上人は、法華経をば『千の中に一りも無し』『捨閉閣抛』、釈尊・多宝・十方分身の諸仏は『一りとして成仏せざることなけん』『皆仏道を成ず』と云々。三仏と導和尚・然上人とは、水火なり、雲泥なり。いずれをか信じ候べき、いずれをか捨て候べき。
なかんずく、彼の導・然両人の仰ぐところの双観経の法蔵比丘の四十八願の中に、第十八願に云わく『たとい我仏を得とも、ただ五逆と誹謗正法とのみを除く』云々。たとい弥陀の本願実にして往生すべくとも、正法を誹謗せん人々は、弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか。また法華経の二の巻には『もし人信ぜざれば、その人は命終して、阿鼻獄に入らん』云々。念仏宗に詮とする導・然の両人は、経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給うべしや。彼の上人の地獄に堕ち給わせば、末学・弟子檀那等、自然に悪道に堕ちんこと疑いなかるべし。これらこそ不審に候え。上人はいかん」と問い給われ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(207)頼基陳状 | 建治3年(’77)6月25日 | 56歳 |