SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

れしかども、折節官仕に隙無く候いしほどに思い立たず候いしかども、法門のことと承ってたびたび罷り向かって候えども、頼基は俗家の分にて候い、一言も出ださず候いし上は、悪口に及ばざること厳察に足るべく候。
 ここに竜象房、説法の中に申して云わく、
 「この見聞満座の御中に御不審の法門あらば仰せらるべく」と申されしところに、
 日蓮房の弟子・三位公、問うて云わく、
 「生を受けしより死をまぬかるまじきことわり、始めておどろくべきに候わねども、ことさら、当時日本国の災孼に死亡する者数を知らず、眼前の無常、人ごとに思いしらずということなし。しかるところに、京都より上人御下りあって人々の不審をはらし給うよし承って参って候いつれども、御説法の最中、骨無くも候いなばと存じ候いしところに、『問うべきこと有らん人は、各々憚らず問い給え』と候いしあいだ、悦び入り候。
 まず不審に候ことは、末法に生を受けて辺土のいやしき身に候えども、中国の仏法、幸いにこの国にわたれり。是非信受すべきところに、経は五千・七千数多なり。しかれども、一仏の説なれば詮ずるところは一経にてこそ候らんに、華厳・真言乃至八宗、浄土・禅とて十宗まで分かれておわします。これらの宗々も、門はことなりとも、詮ずるところは一つかと推するところに、弘法大師は我が朝の真言の元祖、『法華経は華厳経・大日経に相対すれば、門の異なるのみならず、その理は戯論の法、無明の辺域なり。また法華宗の天台大師等は諍って醍醐を盗む』等云々。法相宗の元祖・慈恩大