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正等は、度々義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに、同じく十四日にいくさにまけ、勢多伽が頸きられ、御室おもい死にに死しぬ。かかること候えども、真言はいかなるとがともあやしむる人候わず。およそ真言の大法をつくすこと、明雲第一度、慈円第二度に、日本国の王法ほろび候い畢わんぬ。
今度第三度になり候。当時の蒙古調伏これなり。かかることも候ぞ。これは秘事なり。人にいわずして心に存知せさせ給え。
されば、このこと御訴訟なくて、またうらむることなく、御内をばいでず、我かまくらにうちいて、さきざきよりも出仕とおきようにて、ときどきさしいでておわするならば、叶うことも候いなん。あながちにわるびれてみえさせ給うべからず。よくと名聞・瞋りとの。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(206)四条金吾殿御返事(八風抄) | 建治2年(’76)または同3年(’77) | 55歳または56歳 | 四条金吾 |