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だんなと師とおもいあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。まただんなと師とおもいあいて候えども、大法を小法をもっておかしてとしひさしき人々の御いのりは、叶い候わぬ上、我が身もだんなもほろび候なり。
天台の座主・明雲と申せし人は、第五十代の座主なり。去ぬる安元二年五月に院勘をかぼりて伊豆国へ配流。山僧、大津よりうばいかえす。しかれども、またかえりて座主となりぬ。またすぎにし寿永二年十一月に、義仲にからめとられし上、頸うちきられぬ。これは、ながされ、頸きらるるをとがとは申さず。賢人・聖人もかかること候。
ただし、源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起こりし時、清盛が一類二十余人、起請をかき連判をして、願を立てて「平家の氏寺と叡山をたのむべし。三千人は父母のごとし。山のなげきは我らがなげき、山の悦びは我らがよろこび」と申して、近江国二十四郡を一向によせて候いしかば、大衆と座主と一同に、内には真言の大法をつくし、外には悪僧どもをもって源氏をいさせしかども、義仲が郎等、ひぐちと申せしおのこ、義仲とただ五・六人ばかり叡山の中堂にはせのぼり、調伏の壇の上にありしを引き出だしてなわをつけ、西ざかを大石をまろばすように引き下ろして頸をうち切りたりき。かかることあれども、日本の人々真言をうとむことなし。またたずぬることもなし。
去ぬる承久三年辛巳五・六・七の三箇月が間、京・夷の合戦ありき。時に日本国第一の秘法どもをつくして、叡山・東寺・七大寺・園城寺等、天照太神・正八幡・山王等に一々に御いのりありき。その中に日本第一の僧四十一人なり。いわゆる前の座主・慈円大僧正、東寺、御室、三井寺の常住院の僧
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(206)四条金吾殿御返事(八風抄) | 建治2年(’76)または同3年(’77) | 55歳または56歳 | 四条金吾 |