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これはさておきぬ、文殊・弥勒等には、いかでか惜しみ給うべき。器量なくとも、嫌い給うべからず。方々不審なるを、あるいは他方の菩薩はこの土に縁少なしと嫌い、あるいはこの土の菩薩なれども娑婆世界に結縁の日浅し、あるいは我が弟子なれども初発心の弟子にあらずと嫌われさせ給うほどに、四十余年ならびに迹門十四品の間は、一人も初発心の御弟子なし。この四菩薩こそ、五百塵点劫より已来教主釈尊の御弟子として、初発心よりまた他仏につかずして、二門をもふまざる人々なりと見えて候。天台云わく「ただ下方の発誓のみを見たり」等云々。また云わく「これ我が弟子、応に我が法を弘むべし」等云々。妙楽云わく「子、父の法を弘む」等云々。道暹云わく「法これ久成の法なるに由るが故に、久成の人に付す」等云々。この妙法蓮華経の五字をば、この四人に譲られ候。
しかるに、仏の滅後、正法一千年、像法一千年、末法に入って二百二十余年が間、月氏・漢土・日本・一閻浮提の内にいまだ一度も出でさせ給わざるは、いかなることにてあるらん。正しくも譲らせ給わざりし文殊師利菩薩は、仏の滅後四百五十年までこの土におわして大乗経を弘めさせ給い、その後も香山・清涼山より度々来って大僧等と成って法を弘め、薬王菩薩は天台大師となり、観世音は南岳大師と成り、弥勒菩薩は傅大士となれり。迦葉・阿難等は仏の滅後二十年・四十年、法を弘め給う。嫡子として譲られさせ給える人のいまだ見えさせ給わず。
二千二百余年が間、教主釈尊の絵像・木像を賢王・聖主は本尊とす。しかれども、ただ小乗・大乗、華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏、真言の大日経等の仏、宝塔品の釈迦・多宝等をば書けども、いまだ寿量品の釈尊は山寺・精舎にましまさず。いかなることとも量りがたし。釈迦如来は
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(196)呵責謗法滅罪抄 | 文永10年(’73) | 52歳 | (四条金吾) |