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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

乗阿含経にも及ばず。いわんや通・別・円をや。いわんや法華経に及ぶべしや。かかる浅きことだにも、成ぜんとすれば四魔競って成じがたし。いかにいわんや、法華経の極理、南無妙法蓮華経の七字を始めて持たん日本国の弘通の始めならん人の弟子檀那とならん人々の大難の来らんことをば、言をもって尽くし難し。心をもっておしはかるべしや。
 されば、天台大師の摩訶止観と申す文は、天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡って五百余年、南北の十師、智は日月に斉しく、徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣、前後・次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出だして、三国の一切衆生にあまねく与え給えり。この法門は、漢土に始まるのみならず、月氏の論師までも明かし給わぬことなり。しかれば、章安大師釈して云わく「止観の明静なることは、前代にいまだ聞かず」云々。また云わく「天竺の大論すら、なおその類いにあらず」等云々。
 その上、摩訶止観の第五の巻の一念三千は、今一重立ち入りたる法門ぞかし。この法門を申すには、必ず魔出来すべし。魔競わずば、正法と知るべからず。
 第五の巻に云わく「行解既に勤めぬれば、三障四魔、紛然として競い起こる乃至随うべからず、畏るべからず。これに随えば、人を将いて悪道に向かわしむ。これを畏るれば、正法を修することを妨ぐ」等云々。この釈は、日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。