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各々随分に法華経を信ぜられつるゆえに、過去の重罪をせめいだし給いて候。たとえば、鉄をよくよくきたえばきずのあらわるるがごとし。石はやけばはいとなる。金はやけば真金となる。
この度こそまことの御信用はあらわれて、法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ。雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり。尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし。十羅刹、心み給わんがために、父母の身に入らせ給いてせめ給うこともやあるらん。それにつけても、心あさからんことは後悔あるべし。
また前車のくつがえすは後車のいましめぞかし。今の世には、なにとなくとも道心おこりぬべし。この世のありさま、厭うともよも厭われじ。日本の人々、定めて大苦に値いぬと見えて候。眼前のことぞかし。文永九年二月の十一日に、さかんなりし花の大風におるるがごとく、清絹の大火にやかるるがごとくなりしに、世をいとう人のいかでかなかるらん。文永十一年の十月、ゆき・つしま・ふのものどもの一時に死人となりしことは、いかに人の上とおぼすか。当時もかのうってに向かいたる人々のなげき、老いたるおや、おさなき子、わかき妻、めずらしかりしすみかうちすてて、よしなき海をまぼり、雲のみうればはたかと疑い、つりぶねのみゆれば兵船かと肝心をけす。日に一・二度山へのぼり、夜に三・四度馬にくらをおく。現身に修羅道をかんぜり。
各々のせめられさせ給うことも、詮ずるところは国主の法華経のかたきとなれるゆえなり。国主のかたきとなることは、持斎等・念仏者等・真言師等が謗法よりおこれり。
今度にょうじくらして法華経の御利生心みさせ給え。日蓮もまた強盛に天に申し上げ候なり。い
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(171)兄弟抄 | 建治2年(’76)4月 | 55歳 | 池上宗仲・池上宗長 |