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に、法華経をすて候いけるつみによりて、三周の声聞が三千塵点劫を経、諸大菩薩の五百塵点劫を経候いけること、おびただしくおぼえ候。
せんずるところは、拳をもって虚空を打つはくぶしいたからず、石を打つはくぶしいたし。悪人を殺すは罪あさし、善人を殺すは罪ふかし。あるいは他人を殺すは拳をもって泥を打つがごとし、父母を殺すは拳もて石を打つがごとし。鹿をほうる犬は頭われず、師子を吠うる犬は腸くさる。日月をのむ修羅は頭七分にわれ、仏を打ちし提婆は大地われて入りにき。所対によりて罪の軽重はありけるなり。
されば、この法華経は、一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。一字一点もすつる人あれば、千万の父母を殺せる罪にもすぎ、十方の仏の身より血を出だす罪にもこえて候いけるゆえに、三・五の塵点をば経候いけるなり。この法華経はさておきたてまつりぬ。またこの経を経のごとくにとく人に値うことが難きにて候。たとい一眼の亀は浮き木には値うとも、はちすのいとをもって須弥山をば虚空にかくとも、法華経を経のごとく説く人にあいがたし。
されば、慈恩大師と申せし人は、玄奘三蔵の御弟子、太宗皇帝の御師なり。梵・漢を空にうかべ、一切経を胸にたたえ、仏舎利を筆のさきより雨らし、牙より光を放ち給いし聖人なり。時の人も日月のごとく恭敬し、後の人も眼目とこそ渇仰せしかども、伝教大師これをせめ給うには、「法華経を讃むといえども、還って法華の心を死す」等云々。言は、彼の人の心には法華経をほむとおもえども、理のさすところは法華経をころす人になりぬ。善無畏三蔵は月支国のうじょうな国の国王なり。位を
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(171)兄弟抄 | 建治2年(’76)4月 | 55歳 | 池上宗仲・池上宗長 |