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起を知り、蛇は自ら蛇を識る」とは、これなり。
日蓮は智人にあらざれども、蛇は竜の心を知り、烏の世の吉凶を計るがごとし。このことばかりを勘え得て候なり。このことを申すならば、須臾に失に当たるべし。申さずんば、また大阿鼻地獄に堕つべし。
法華経を習うには三つの義あり。一には謗人。勝意比丘・苦岸比丘・無垢論師・大慢婆羅門等がごとし。彼らは三衣を身に纏い、一鉢を眼に当て、二百五十戒を堅く持って、しかも大乗の讐敵と成って無間大城に堕ちにき。今の日本国の弘法・慈覚・智証等は、持戒は彼らがごとく、智慧はまた彼の比丘に異ならず。ただし、「大日経真言第一、法華経第二・第三」と申すこと、百千に一つも日蓮が申すようならば、無間大城にやおわすらん。このことは申すも恐れあり。まして書き付くるまではいかんと思い候えども、「法華経は最も第一なり」と説かれて候に、これを「二」「三」等と読まん人を聞いて、人を恐れ国を恐れて申さずんば、「即ちこれ彼が怨なり」と申して、一切衆生の大怨敵なるべき由、経と釈とにのせられて候えば、申し候なり。人を恐れず、代を憚らず云うこと、「我は身命を愛せず、ただ無上道を惜しむのみ」と申すはこれなり。
不軽菩薩の悪口・杖石も他事にあらず。世間を恐れざるにあらず。ただ法華経の責めの苦ろなればなり。例せば、祐成・時致が大将殿の陣の内を簡ばざりしは、敵の恋しく恥の悲しかりし故ぞかし。これは謗人なり。
謗家と申すは、すべて一期の間法華経を謗ぜず昼夜十二時に行ずれども、謗家に生まれぬれば必ず
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(170)秋元御書 | 弘安3年(’80)1月27日 | 59歳 | 秋元太郎 |