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まぼりとなりしがごとし。日本国もまたまたかくのごとし。「法華最第一」の経文、初めてこの国に顕れ給い、「能くひそかに一人のためにも、法華経を説かば」の如来の使い、初めてこの国に入り給いぬ。桓武・平城・嵯峨の三代、二十余年が間は、日本一州皆法華経の行者なり。
しかれば、栴檀には伊蘭、釈尊には提婆のごとく、伝教大師と同時に弘法大師と申す聖人出現せり。漢土にわたりて大日経・真言宗をならい、日本国にわたりてありしかども、伝教大師の御存生の御時はいとう法華経に大日経すぐれたりということはいわざりけるが、伝教大師、去ぬる弘仁十三年六月四日にかくれさせ給いてのち、ひまをえたりとやおもいけん、弘法大師、去ぬる弘仁十四年正月十九日に、真言第一・華厳第二・法華第三、法華経は戯論の法、無明の辺域、天台宗等は盗人なりなんど申す書どもをつくりて、嵯峨の皇帝を申しかすめたてまつりて、七宗に真言宗を申しくわえて、七宗を方便とし、真言宗は真実なりと申し立て畢わんぬ。
その後、日本一州の人ごとに真言宗になりし上、その後また、伝教大師の御弟子・慈覚と申す人、漢土にわたりて、天台・真言の二宗の奥義をきわめて帰朝す。この人、金剛頂経・蘇悉地経の二部の疏をつくりて、前唐院と申す寺を叡山に申し立て畢わんぬ。これには大日経第一・法華経第二、その中に弘法のごとくなる過言かずうべからず。せんぜんに、しょうしょう申し畢わんぬ。
智証大師、またこの大師のあとをついで、おんじょう寺に弘通せり。とうじ、寺とて国のわざわいとみゆる寺これなり。叡山の三千人は、慈覚・智証おわせずば、真言すぐれたりと申すをばもちいぬ人もありなん。円仁大師に一切の諸人くちをふさがれ、心をたぼらかされて、ことばをいだす人なし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(167)曽谷殿御返事(輪陀王の事) | 弘安2年(’79)8月17日 | 58歳 | 曽谷道宗 |