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彼の諷誦に云わく「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで、釈迦如来の御前において、自ら自我偈一巻を読誦し奉って聖霊に回向す」等云々。
当時、日本国の人、仏法を信じたるようには見えて候えども、古いまだ仏法のわたらざりし時は、仏と申すことも法と申すことも知らず候いしを、守屋と上宮太子と合戦の後、信ずる人もあり、また信ぜざるもあり。漢土もかくのごとし。摩騰、漢土に入って後、道士と諍論あり。道士まけしかば、始めて信ずる人もありしかども、不信の人多し。
されば、烏竜と申せし能書は手跡の上手なりしかば、人これを用いる。しかれども、仏経においてはいかなる依怙ありしかども書かず。最後臨終の時、子息・遺竜を召して云わく「汝、我が家に生まれて芸能をつぐ。我が孝養には仏経を書くべからず。殊に法華経を書くことなかれ。我が本師の老子は天尊なり。天に二つの日なし。しかるに、彼の経に『ただ我一人のみ』と説く。きかい第一なり。もし遺言を違えて書くほどならば、たちまちに悪霊となりて命を断つべし」と云って、舌八つにさけて、頭七分に破れ、五根より血を吐いて死し畢わんぬ。されども、その子、善悪を弁えざれば、我が父の謗法のゆえに悪相現じて阿鼻地獄に堕ちたりともしらず。遺言にまかせて仏経を書くことなし。いわんや口に誦することあらんをや。
かく過ぎ行くほどに、時の王を司馬氏と号し奉る。御仏事のありしに、書写の経あるべしとて漢土第一の能書を尋ねらるるに、遺竜に定まりぬ。召して仰せ付けらるるに、再三辞退申せしかば、力及ばずして他筆にて一部の経を書かせられけるが、帝王心よからず。なお遺竜を召して仰せに云わく
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(164)法蓮抄 | 建治元年(’75)4月 | 54歳 | 曽谷教信 |