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いて、六道四生の父母孝養の功徳を身に備え給えり。
この仏の御功徳をば、法華経を信ずる人にゆずり給う。例せば、悲母の食う物の乳となりて赤子を養うがごとし。「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」等云々。教主釈尊は、この功徳を法華経の文字となして、一切衆生の口になめさせ給う。赤子の水・火をわきまえず、毒・薬を知らざれども、乳を含めば身命をつぐがごとし。阿含経を習うことは舎利弗等のごとくならざれども、華厳経をさとること解脱月等のごとくならざれども、乃至一代聖教を胸に浮かべたること文殊のごとくならざれども、一字一句をもこれを聞きし人、仏にならざるはなし。彼の五千の上慢は、聞いてさとらず、不信の人なり。しかれども、謗ぜざりしかば、三月を経て仏になりにき。「もしは信ずるも、もしは信ぜざるも、則ち不動国に生ぜん」と涅槃経に説かるるは、この人のことなり。法華経は、不信の者すら、謗ぜざれば、聞きつるが不思議にて仏になるなり。いわゆる七歩蛇に食まれたる人、一歩乃至七歩をすぎず。毒の用の不思議にて八歩をすごさぬなり。また胎内の子の七日のごとし。必ず七日の内に転じて余の形となる。八日をすごさず。
今の法蓮上人も、またかくのごとし。教主釈尊の御功徳、御身に入りかわらせ給いぬ。法蓮上人の御身は過去聖霊の御容貌を残しおかれたるなり。たとえば、種の苗となり、花の菓となるがごとし。その花は落ちて菓はあり。種はかくれて苗は現に見ゆ。法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり。松さかうれば柏よろこぶ。芝かるれば蘭なく。情なき草木すら、かくのごとし。いかにいわんや、情あらんをや。また父子の契りをや。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(164)法蓮抄 | 建治元年(’75)4月 | 54歳 | 曽谷教信 |