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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

華経五部を転読し奉る」等云々。
 夫れ、教主釈尊をば大覚世尊と号したてまつる。世尊と申す尊の一字を高と申す。高と申す一字は、また孝と訓ずるなり。一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば、世尊と号し奉る。釈迦如来の御身は金色にして三十二相を備え給う。彼の三十二相の中に無見頂相と申すは、仏は丈六の御身なれども、竹杖外道もその御長をはからず、梵天もその頂を見ず。故に無見頂相と申す。これ孝養第一の大人なれば、かかる相を備えまします。
 孝経と申すに二つあり。一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり。二には内典。今の法華経これなり。内外異なれども、その意はこれ同じ。釈尊、塵点劫の間修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ。孝養のことなり。しかるに、六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おえざりしかば、仏にならせ給わず。
 今、法華経と申すは、一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。いわゆる、地獄の一人、餓鬼の一人、乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生皆仏になるべきことわり顕る。譬えば、竹の節を一つ破りぬれば、余の節また破るるがごとし。囲碁と申すあそびにしちょうということあり。一つの石死しぬれば、多くの石死しぬ。法華経もまたかくのごとし。金と申すものは木草を失う用を備え、水は一切の火をけす徳あり。法華経もまた一切衆生を仏になす用おわします。六道四生の衆生に男女あり。この男女は皆、我らが先生の父母なり。一人ももれば仏になるべからず。故に二乗をば不知恩の者と定めて、「永く成仏せず」と説かせ給う。孝養の心あまねからざる故なり。仏は法華経をさとらせ給