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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

疑いをなせしかども、仏語むなしからざれば、ついに二月十五日に御涅槃ありき。されば、仏の金言は実なりけるかと少し信心はとられて候。
 また仏記し給う。「我滅度して後一百年と申さんに、阿育大王と申す王出現して、一閻浮提三分の一が主となりて、八万四千の塔を立て、我が舎利を供養すべし」と云々。人疑い申さんほどに、案のごとくに出現して候いき。これよりしてこそ信心をばとりて候いつれ。また云わく「我が滅後に四百年と申さんに、迦弐色迦王と申す大王あるべし。五百の阿羅漢を集めて婆沙論を造るべし」と。これまた仏記のごとくなりき。これらをもってこそ仏の記文は信ぜられて候え。
 もし上に挙ぐるところの二つの法門妄語ならば、この一経は皆妄語なるべし。寿量品に「我は過去五百塵点劫のそのかみの仏なり」と説き給う。我らは凡夫なり。過ぎにし方は、生まれてより已来すらなおおぼえず。いわんや一生二生をや。いわんや五百塵点劫のことをば、いかでか信ずべきや。また舎利弗等に記して云わく「汝は未来世において、無量無辺不可思議劫を過ぎて乃至当に作仏することを得べし。号づけて華光如来と曰わん」云々。またまた摩訶迦葉に記して云わく「未来世において乃至最後身において、成じて仏となることを得ん。名づけて光明如来と曰わん」云々。これらの経文はまた未来のことなれば、我ら凡夫は信ずべしともおぼえず。されば、過去・未来を知らざらん凡夫は、この経は信じがたし。また修行しても何の詮かあるべき。これをもってこれを思うに、現在に眼前の証拠あらんずる人この経を説かん時は、信ずる人もありやせん。
 今、法蓮上人の送り給える諷誦の状に云わく「慈父幽霊、第十三年の忌辰に相当たり、一乗妙法蓮