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これ程に貴き教主釈尊を、一時二時ならず一日二日ならず一劫が間、掌を合わせ、両眼を仏の御顔にあて、頭を低れて、他事を捨てて、頭の火を消さんと欲するがごとく、渇して水をおもい飢えて食を思うがごとく、間無く供養し奉る功徳よりも、戯論に一言、継母の継子をほむるがごとく、心ざしなくとも、末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて一劫が間生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべしと説き給いて候。これを妙楽大師は「福十号に過ぐ」とは書かれて候なり。十号と申すは、仏の十の御名なり。十号を供養せんよりも末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかかれたり。妙楽大師は法華経の一切経に勝れたることを二十あつむる、その一つなり已上。
上の二つの法門は、仏説にては候えども、心えられぬことなり。いかでか、仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや。しかれども、これを妄語といわんとすれば、釈迦如来の金言を疑い、多宝仏の証明を軽しめ、十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし。もししからば、現身に阿鼻地獄に堕つべし。巌石にのぼりてあら馬を走らするがごとし。心肝しずかならず。また信ぜば、妙覚の仏にもなりぬべし。いかにしてか、今度、法華経に信心をとるべき。信なくしてこの経を行ぜんは、手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし。
ただし、近き現証を引いて遠き信を取るべし。仏の御歳八十の正月一日、法華経を説きおわらせ給いて御物語あり。「阿難、弥勒、迦葉よ。我世に出でしことは法華経を説かんがためなり。我既に本懐をとげぬ。今は世にありて詮なし。今三月ありて二月十五日に涅槃すべし」云々。一切内外の人々
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(164)法蓮抄 | 建治元年(’75)4月 | 54歳 | 曽谷教信 |